□食に関すること
生き物は何かを食することで生を全うできる。
その際に、発生する狂気や恐怖などの負の感情に対しての懸念がベジタリアンやヴィーガンなどの文化が生まれた。
僕も魚や肉などの動物性の食品は口にしたくないと思っている。
何故このような文化が生まれたのか…
僕はそこまで詳しくはないが多くは動物たちが可哀想だということだろうか…
この可哀想っていうのは正直言ってどこまでを妥協ラインにするかで全然意味が変わってくる。
実際、植物も動物も生きているし死ぬときは死ぬ。
しかし、ベジタリアンやヴィーガンなどを好む人種はあの動物たちが殺されている残虐行為が許せないのだ。
つまりは、人間と動物たちが戯れあった後に死亡し、食していたのであれば話は変わっていたのかもしれない。
動物たちの争いに敗北した動物の肉を食べていたら、また話は変わっていたのかもしれない。
もし、動物たちが残虐な行為ではなくいたって自然な死を体験し人間に食されていた場合、植物と動物の評価は一旦、フラットに近い状態に戻る。
この状態で、動物が死んだから可哀想だって肉をたべないのであれば植物だって同じことが言える。
植物だって一生懸命生きているんだって…
これはどう考えても、都合がいいように人間が捉えているのだ。
人間も動物だ。
だからこそ、同じ種族に対して感情が揺れ動く。
植物の気持ちよりも動物の気持ちの方がわかるから…
このように、何かを見ているときに何かを見ていないときというのは必ず存在する。
「必ず」だ!
もう一つだけ例を出す。
道端に花が咲いていた。
その花を踏んだら可哀想だって誰かが言った。
花は植物。
花の周りにはたくさんの雑草が生えていた。
雑草も植物。
しかし、雑草を踏んだら可哀想だという感想は中々聞こえないだろう。
花に対して同情をしている時、雑草は踏まれているのだ。
だが、これを言い出すときりがなくて土や石なども可哀想だと思ってしまう。
そうすると、完全に何もできなくなってしまう。
〇まとめ
人間だけじゃない様々な生き物を含める世界、宇宙、銀河に存在するものは何かを得るために何かを捨てているのだ。
大なり小なりこれは仕方がないことだ。
なので、明日の一歩を踏み出すということを何かを犠牲にしているということだ。
その犠牲に感謝し生に全うできているのならば…
まぁなんてことはないただの人間だ。
人は皆、自分を肯定するための偽善で見繕った衣服を身に着けているのだ。