brainworld-gifted’s diary

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人として生きるということ

もし、自分が結婚をして妻を持ち楽しい人生を歩みだしたのであれば一体どういった人生を求めたらいいのだろうか。

一体、どこまでの楽さを求め厳しさを求め、人としてある程度のレベルを維持するべきなのだろうか。

まぁまず考えられるのが犯罪者レベルにはなるわけにはいかない。
そして、ひも人間にもなるわけにもいかない。
ある家庭には自立した二人の人間がいる。
ただそれだけでいいのだろう。


人間の思考のほとんどは無駄な事が多いと自覚している。
何故なら、ほとんどが杞憂で終わってしまうからだ。
しかしながら、人はその杞憂に対して執着や固執したりするのだ。
そして、今回の記事はその一つだということである。


他人であれ、嫌いな人間であれ、好きな人間であれ、愛する人間であれ、適正距離というものが存在していると感じている。
その距離を誤ったとき、その関係性は破綻するのだと思っている。
だから、その適正距離を理解して心地よさを感じることがその人と長く付き合うコツなのだろう。
しかし、根本的に合わないのであればいずれ限界は来るだろう。


そうしていく中で、『人として生きていく』というテーマを元に色々と考えていきたいのだ。

犬や猫といった動物たちにとって生きるということは当たり前のことを毎日こなしていくことに過ぎないのだろうか。
犬や猫になったことがないので理解出来ないのだが、行動の選択肢は人より少ないと思っている。

そして、人は選択肢がとても多いと実感している。
しかし、ほとんどの人間があまりにも狭い領域で暮らし一生を終える。

それは、果たしてどうなのだろうかと考えるが人の人生をとやかく言う義理と責任はないので深く追及はしない。
実行可能な事柄が増えていく。
つまり、大人になっていくにつれて人は責任感が問われてくる。
何故なら、その広がっていく己の可能性で周りを巻き込んだマイナス減少を引き起こされたら厄介だからだ。
そうした一つ一つの行動に責任を問われるため、人は領域をあまり広げようとはしない。
それが生存本能なのかもしれない。

私は人間という種族の可能性をとてつもなく広く見ている。
つまり、常日頃考えている理想や空想での現象だけではなく、あらゆることが実行可能だと思っている。
しかし、それは個人の可能性の問題であって他人がとやかく指示することではないのである。
そのため、普及しなければきっと私が異常者として存在することだろう。


この世には言い伝えというものが存在している。
空想や妄想だといわれていたとしてもあまりにもどこか根拠がありそうなものばかりなのは明白。
それならば、きっとこう考えられるのだ。
どこかに似たようなことが起きていたのだということを。

そうしていくにつれて、人は思考が冴えわたり今まで見えなかったことが見えてくるだろう。






人としての可能性。
あなたならどこまで信じて実行していくのか、そういう未来を私は想像して今、平凡な日常を暮らしている。
一人一人の問題なのだから、私にとってはどうだっていいのだが、どうしても一人では世界を変えようにも変えられないのでストレスは溜まっていくだろう。

話を戻すと、人はあらゆる行動パターンの可能性を秘めた動物だということを伝えたい。
そして、その人が生み出す可能性と現実を照らし合わせてみると一体どこまでのレベルを日々行い続けるのがベストなのかと考える。

楽しまなくちゃいけない時に複雑な心境や心持ちだとあまりにもそっけなく人生を存している気がするし、周りにとってもいい気分ではないだろう。

そのため、どこまで楽しんでどこまで考えてどこまで成長していけばいいのかさっぱりなのだ。

将来の妻に「今楽しんでいるんだから、そんなこと言わないでよ!」なんて言われてしまった暁には脳内が混乱してしまうだろう。
そうならないためにも、そうなる回数を減らすためにもきっと会話が必要なのだろう。
常に、すり合わせる。

大切な人だからこそ素っ裸で語り合う。
そういう度胸と覚悟を持って接するのが人と人とのコミュニケーション。
体系的で肉体的な人間関係ということなのだろうか。

 

 

こうして、私は考えていることと悩んでいることのギャップを感じながら今日も眠りにつこうと思う。


人はくだらないことに思考時間をかけ、忘れていく。
そういった生き物なのだから仕方がないだろう。


一つ一つのかけらを忘れながら大きな獲物を逃さない。
そういった人生が楽しいのだろうか。
はたまた、小さな獲物を堅実に集めていくのがいいのだろうか。


リスクには必ず根拠がある。
考えて考えて考えてみると意外と、そのリスクは大きくなくて小さいかもしれない。
それは、本人の努力で変わってきたりもするのが面白いところなのだ。


自分で自分の人生を彩って最後は真っ黒でも真っ白でも虹色でも何色でも。

自分という何色でもないものになっているそんな人がたくさんいる世の中が好ましいと考える。
良き世界は一つの犠牲から生まれる。
しかし、それは必ず巡り巡って幸せは訪れてくる。


覚悟とリスクを背負って一人一人、人として生きていこう。

過去と現在と未来

様々な輪廻の中で人は生きている。
そして、その中で人は正解を求めて探している。

それはいったい何なのだろうかと常に思考を巡らせて歩いていく生きていく。

そうして生まれたのがこの人生なのだ。
人は悩み苦しむ。
悩みを放棄するのもよし放棄しないのもよし。

色々な生き方の中で人は何かをまた超えて生きていかなければいけない。
何かを超えられなくなったとき、一つの生命が終了する。

それをすなわち『死』という。

ありがちな人生、素敵な人生、予想外な人生、面白い人生。



さぁ一体どんな人生を歩んでいけばいいのだろうか。




時間は考えものだ。
色々な形に変えて私たちを蝕んでくる。
そして、時にそれは助けてくれたりもしてくれる面白いもの。

私は思うのです。
時間を制するものは幸せを手にするのだと。
それは、一体どういうことなのだろうかと自分にもわからないくらいにとても複雑なようで悲しくも嬉しくもあること。


いかにして、自分の世界を制することができるのだろうか。


こうして、人はまた悩む。



そうなのだ。



自分を超えていけばいい。
ただそれだけなのだ。


過去、現在、未来。
それはただ分類しているだけに過ぎなく、いつだって自分は自分なのだ。
じゃあ、何が違うのかなんてのものはわからない。
人は不明瞭な事柄を何とか理解するために分類する傾向がある。

時間もその一つだろう。

だから、あまり深入りは厳禁なのだ。


どんな時でも自分は自分なのだ。
目の前の世界が自分の世界なのだ。


自分の座標を見失った時こそが本当の死だと思う。


いつだって、死は前の前にある。
だから、間違えてはいけないのだ。
生きるということは死なないということなのだと。

生きるために生きてはいけない。



死なないために生きてほしいと心の底から思う。




死んでも生きているそんな人になれ!

 

 

後は、自分で考えて先へ進もう…
Good luck …

自由は制限下でのみ生まれる概念である

自由とはいったい何なのだろうか。

人間という生き物はロボットとは違うということを他の生き物とは違うということを証明するかのように毎日何時間もかけて思考を巡らせる。
その思考内容は問わない。


自分たちが存在する世界は一体何処にあり、何があるのか。
特に、必要以上に思考回数を施す人間にとっては難しいだろう。
何故なら、考えすぎるからだ。

 

考えの先にあるのは無か有か。
はたまた、何か違うモノか。
思考の先は読めない。
だからこそ、人間という生き物は闇にも光にも染まる。
他の生き物だってそうだ。

何かがあって初めて存在できるものがある。
例えば、表がなければ裏は存在しないのだ。


この例を参考にして自由を考えてみよう。
自由とは自分の思うままに行動し誰からの干渉も受けない区域。
例え、世界が崩壊しようと関係ない。
これが、私の僕の世界なのだ!

一般的な解釈はこれでいいかな?(合ってるかわからないが…)

そして、何故自由と思うかについて考えてみる。
制限がある生活があったから自由になりたいと考え行動に移す。
つまり、制限がなければ存在しないのだ。

例えば、過去の記憶を全て消された人が広大な砂漠へ一人置かれたとする。
これは自由なのか。
私たち人間が見れば自由でしょって思うかもしれないが、制限がある生活をしている者の視点だからそういう考えに至るのだ。

何よりも、制限がない自由というのはすべきことが膨大にあるせいで何からしていいかわからず、戸惑う。
人によってはやるべきことをさっさと見つけて自分のすべきことを全うしていくかもしれないが、それは長続きしないだろう。
制限のない世界の中で行う行動すべてはやがて目的を見失ってしまうからなのだ。


グループや国を作ったり、面白くないからルールを作って遊びをしだす。
人は制限があっての自由だということを理解するとより人生を楽しめるかもしれない。
何故なら、やるべきことが見えてくるかもしれないから制限があるから今があると考えるとストレスも少しは軽減し新たな挑戦をしようという気持ちが生まれるかもしれないから。



ここまで、話したことは制限があるから自由があるということ。
そして、制限は全ての事柄に関与している。

寿命があるから命の尊さを知る。
長期休みの期間はいつも以上に楽しめる。
一日が24時間だからどうやって一日を過ごそうか考える。
〇〇が好きだから〇〇をしようと考える。
自分の考えはこうだからああしよう。
ある作品を美しいと思える。

私たちが暮らす日々の生活は制限の中でしか生まれていないのだ。
そして、その制限を作っているのは自分たちなのだ。
安心しないのだろう。

何故なら…

それが無くなったとき…
全てが『無』になるからだ。




この世の全ては何かが定義されているから何かを定義できるというように相対性に満ち溢れていて点と点のようにみえて全て線で繋がっているのだ。

一見、違うように見えても繋がっていたりするものなのだ。




誰だって自分の好きな人生を歩みたいものだ。
しかし、そう簡単にはいかない。
だからこそ、自由を求める。
求める声が多いからこそ、自由という概念が生まれた。



全ては諸刃の剣なのだ。
自分たちが望む平和や自由の世界が実現したとき、本当の恐怖が待っているのかもしれない。
だからこそ、程よくストレスは感じていたほうがいいのだと私は感じている。
それに、全てなくすということは不可能だから…



生き物はその生き物なりの生き方しかできない。
思いあがらず、ただただ日々を全うすることが一番簡単なようで難しいこの世の中で、自分たちはどのように行動していく?



考えることから逃げた生き物に生の価値はない。

考える

考える。

考える。

常に頭をフル回転させて考える。
それがギフテッドの特徴の一つでもある。


僕は考える。
一人の世界に入り浸り、自分の時間を楽しみ、我を忘れ、一秒一秒刻々と時間が過ぎていくことも知らずに…


この世界はストレスまみれだ。
そもそも、なぜ動物の中で人間だけ働いているのだろうか。
おかしな話で、自分たちが勝手に作った世界で勝手に苦しんでいるって本当に滑稽な生き物だよね。


脱線しようものならば、力づくで線路へ戻す。


こんなにも世界は広く自由なのに何一つ世界の事を知らないまま沢山の人が死ぬ。


「開放的空間に閉鎖的な人間」


徒然なるままに日々を過ごした先にはきっと何かが待っている。
それは、いったい何なのだろうか。
我々にはきっと想像することが困難な何か。


考える。
想像する。
悩む。

脳というものは本当に色々な機能を携えており、我々人間にとって有意義な時間を過ごさせてくれる。

確かに、色々と考えると90%は蛇足で残りの10%だけで十分だったりもする。


しかし、僕は思う。
人間として生きた以上は、この蛇足を楽しむしか生き甲斐がないと思う。


頭の中に形成される様々な思い出。
日々を連ねたアルバム。
その中にふと入りこむ。
予想のつかないワンシーン。


人間とロボットというのは正直、判別することが難しいと思う。
もちろん、解剖すれば一発で分かるのだが、解剖しなければわからないのではないかと思ってしまう。

人間はあらゆる思考パターンが用意されているが故にアイデンティティーというものが存在し、それを生き甲斐に人は毎日を過ごす。
しかし、ロボットは洗練された思考パターンなため精巧さが際立つ。
そのため、同じようなモノがたくさん存在する。


結局、ロボットも人間もやっていることは同じ。
ただ、思考パターンが違うだけ。
中身を見なければ一緒だ。


犬を見ていぬと思う。
もし、その犬が人間の見た目をしていたら?
人間の顔が犬だったら?


犬といえる?
人間といえる?


この世の中にある当たり前というものは本当に脆く儚い。
その為、誰も信用していないのかもしれないが、それに縋ることしかできずに一生を終える。



まぁ人間である以上は、最後の最後に無駄なことをして終わろうかな…



自分は人間だと、一人の日本人だという証明をして終わろう…






さようなら。
ありがとう。



きっと、自分のことが大好きな皆が求める先には愛があるさ。
求めるものだけが手に入れられる素晴らしい愛が…

何かを見ている時は何かを見ていない

□食に関すること

生き物は何かを食することで生を全うできる。
その際に、発生する狂気や恐怖などの負の感情に対しての懸念がベジタリアンヴィーガンなどの文化が生まれた。

僕も魚や肉などの動物性の食品は口にしたくないと思っている。


何故このような文化が生まれたのか…
僕はそこまで詳しくはないが多くは動物たちが可哀想だということだろうか…


この可哀想っていうのは正直言ってどこまでを妥協ラインにするかで全然意味が変わってくる。


実際、植物も動物も生きているし死ぬときは死ぬ。
しかし、ベジタリアンヴィーガンなどを好む人種はあの動物たちが殺されている残虐行為が許せないのだ。
つまりは、人間と動物たちが戯れあった後に死亡し、食していたのであれば話は変わっていたのかもしれない。
動物たちの争いに敗北した動物の肉を食べていたら、また話は変わっていたのかもしれない。


もし、動物たちが残虐な行為ではなくいたって自然な死を体験し人間に食されていた場合、植物と動物の評価は一旦、フラットに近い状態に戻る。
この状態で、動物が死んだから可哀想だって肉をたべないのであれば植物だって同じことが言える。
植物だって一生懸命生きているんだって…

これはどう考えても、都合がいいように人間が捉えているのだ。
人間も動物だ。
だからこそ、同じ種族に対して感情が揺れ動く。
植物の気持ちよりも動物の気持ちの方がわかるから…

このように、何かを見ているときに何かを見ていないときというのは必ず存在する。
「必ず」だ!

 

もう一つだけ例を出す。

道端に花が咲いていた。
その花を踏んだら可哀想だって誰かが言った。

花は植物。
花の周りにはたくさんの雑草が生えていた。
雑草も植物。
しかし、雑草を踏んだら可哀想だという感想は中々聞こえないだろう。

花に対して同情をしている時、雑草は踏まれているのだ。


だが、これを言い出すときりがなくて土や石なども可哀想だと思ってしまう。

そうすると、完全に何もできなくなってしまう。




〇まとめ
人間だけじゃない様々な生き物を含める世界、宇宙、銀河に存在するものは何かを得るために何かを捨てているのだ。
大なり小なりこれは仕方がないことだ。

なので、明日の一歩を踏み出すということを何かを犠牲にしているということだ。


その犠牲に感謝し生に全うできているのならば…
まぁなんてことはないただの人間だ。

 

 

人は皆、自分を肯定するための偽善で見繕った衣服を身に着けているのだ。

生きるのが辛い

□お久しぶりです!
このブログを見ている人がどれだけいるのか分かりませんが、久しぶりにブログを書いてみようと思います。

人は生きる
動物は生きる
植物だって生きる

「生」を感じる為に人は生きる
それは一体何のために?

間違いなく『自分の為に』です。
他人の為に行動できる人が一体どれだけいるのだろうかという話。

他人の為に行動しているとしても、それは全て自分のためだったりする訳で、結局変わっていない。


僕は、そういう自分の為に他人を利用する人が大嫌いです。
まぁそんな人しかいないので僕は人間が大嫌いです。


人間が嫌いだし、コミュニケーションが好きじゃない
それに、生きていく上でいろいろなコミュニティーに入らないといけないかもしれないという状況に今、立たされています。

僕は孤独が好きですし、孤独を愛しています。
そして何より、孤独でいられる時が自分らしいと思え、どんな時よりも自分自身でいられる気がしてとっても楽です。

人と交わるのが嫌い

何故なら、皆自分のことしか考えていないから…
そして、その浅はかさに全く気付いていないのが腹が立つ。

僕は周りから見れば、おっちょこちょいで間抜けで仕事ができない奴だと思われているだろう。
ギフテッド特有の特徴も相まってか、僕は人と交わるのがかなりストレスに感じてしまうほどに浮いてしまう。

本当に辛いし、生きづらい。


まだ若いが、死を実感しているのと同時に未来が暗くて暗くて、平凡に暮らすことさえも厳しいのではないかと思えるほどに生きるのが怖いし辛いし逃げたくなる。

しかし、人生そんなに甘くなく誰も甘やかしてくれません。
やるしかない。

自分で課した課題をこなし、また一つ一つと成長していく。


自分はまだまだ頑張れる。




例え、人に嫌われようと人に疎まれようと死にたくなろうとも孤独に縋りたい、そんな気分になります。

四面楚歌
八面楚歌
十二面楚歌………

自分のやりたい事が分かった

僕はずっと、自分とは何か自分は何が出来るのか探してきた。

何をしてもダメな人生だった。


ある時に自分はギフテッドだと気付いた。

色々調べていたら自分に当てはまりすぎたから…

でも、僕は何も抜きでたモノがない。

勉強も中途半端、運動も中途半端。

じゃあ、ただの変人どまりじゃないかと思ったわけだ。



僕は昔から自分は何か大きな事を成すことが出来る天才なのだと思っていた。

そして、それは今も揺るがない。

たまに、自分は天才ではないと気付いた時からが本番だ。という人がいるが自分はその考えに納得いかなかった。

だって、自分は天才だもんって。



僕は諦めたくなかったから。

色々なモノに手を出した。

サッカー、研究、そろばん、水泳、理学療法


結局、どれも特に出来る訳じゃなかった。

出来ても中途半端。

あー僕はもうダメなのかなと思っていた。



2020年に理学療法士の資格を取れる大学を卒業する予定だった僕だが、3回生の時に学校を行きたくなくなって鬱になり休学した。

数ヶ月、休んだ後に何かせねばと約1年間、本気で研究した。

自分の賢い頭はもっと使っていかないといけないと思ったから。


でも、何もうまくいかなかった。

人生何やっても上手くいかねーじゃねーかなんて思っていた。

でも、諦めたくなかった。



僕は昔から音楽が大好きだった。

僕の長所は聡明さと音楽にセンスがある事だと思っていた。

音楽は最終手段だなとかなり前から思っていた。

だから、もう僕には音楽しかねーって思った。


高校の時から勉強する時にクラシック音楽を聴き始めた。

そこで、クラシック音楽の素晴らしさに気付いた。

音楽って色々あるけどクラシック音楽が1番だなって思える程に…


そして、アニメが好きだった僕は四月は君の嘘ピアノの森を見たりしてピアノの音にハマっていった。



そして、今年の5月から全くした事がないピアノをやり始めた。

今年で卒業だった僕は先生や親とバトルをして3ヶ月間の末、退学をする事が出来た。


今年の5月から始めた。

超初心者の大人ピアニスト。

始めたばかりなのに学校を辞めてその道で行くことを決めた。

それ程、ピアノが素晴らしいって実際にやってみて思えたから。



僕は誰に何言われても曲げない性格だった。

高校受験の時も、無理だと言われて反対されても難しい学校を受けた。



僕は僕だし、誰に何言われても変わらない。

ごちゃごちゃ言うんだったら自分の人生見直しな!って思ってしまう。



多くの人は自分のしたいことを我慢しているらしい。

でも、やってみないと分からないじゃないか一歩踏み出さないと分からないじゃないか。

だから、これからどんどん自分の夢に向かって一歩踏み出して行ける人が増えたらいいなと思っています。




僕はずっと苦しかった。

暗闇しかない人生だった。

このまま、流れに流されてただお金を稼ぐだけの仕事をして趣味をする人生なのかなーって…

人生そんなわけないじゃないか。

人として生まれたなら自分を表現してなんぼでしょ!って思える。

皆は謙虚過ぎるんだ!

もっと自分を出していけ!

ここに自分はいますよって!

他人に何言われようとも自分の道を行く人は凄くかっこいいと思う。

それに対して陰口言うやつは最高にダサい。


そんな弱い奴らに負けるな!

自分の道を少しでも行こうと考えている人は強いんだ。

他人に自分の人生狂わされたくないだろ?

僕もめちゃくちゃ怖かったよ。

1歩踏み出すのだってそうだし、親と先生と喧嘩するのだって怖かった。

でも、今は何とか自分の望んだ未来へ行けている。

辛かったけど、自分の行きたかった所に行けている。

もっと自分らしい人生を歩んで行ける人が増えていけたらいいなと思いこの記事を書きました。


初めは皆怖い。

そこを乗り越えた先には絶景がある。

乗り越える所を見誤るな!

自分が人生をかけてでもやりたい所に行くのだ!

やりたくないけどやらなくちゃっていう所を乗り越えて褒めてもらえるのは間違ってる。

やりたくなかったら辞めたらいいのだ。

その辞める決断の怖さに戦うべきなのだ。

もっと自分を大事にして欲しいなと思いました。

それでは、また。


痛みを感じる方向に出口がある(電脳コイル)